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作家寄稿
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略歴
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石田誠進化論Ⅱ−まことのさけうつわ−

石田誠氏特別寄稿「日々の事」


冬の仕込み

山から吹き下ろすさわやかな北風を浴びつつ、半ば凍ったようなサヌキツチを手にからませつつ作業は進みます。指先は麻痺。鼻水はたれ、あーとか、うーとか声だし作業を進めるしかありません。近くの畑で銀杏の選定をしているマダムは対象に淡々と仕事をしています。粘土は重く、リキむと身体にわるそうなのでなるべく息をはきつつ口を半開きで作業するように心がけています。指先や脳味噌はじんじん痺れ麻痺してるのになぜか身体は熱く汗だくになるから不思議なものです。

南蛮、化粧陶器等に使用するサヌキツチの仕込みは、粘土置き場から軽トラで仕事場脇に設置してある粘土漕に移し込み、ホースで水を撒いてしばらくそのまま置いておきます。やがて轆轤等の手が空いた時間でおもむろに粘土の仕込みとなります。特に冬の仕込み作業は厳しいものがあります。まず粘土槽が北側山裾にある故に北風がぬけていきます。水がしみわたった粘土をスコップや鍬などでほぐしつつ、手で、素焼き鉢や石膏鉢とよばれる鉢状の器にほぐれた粘土を移してゆきます(石膏鉢は瀬戸にいた頃、友人の製陶所で以前植木鉢を作っており、「仕事場にたくさんあるから取りにきなさい」っと友人の好意により頂いたものです。俗に水簸鉢と呼ばれ、やきものの作業にはかかせない便利な道具です。約20年たった今も現役で使ってます。感謝)。

そして3〜4日後水簸鉢から水分がひいた粘土をとりだし一輪車で別の保管場所へ移動し、空いた鉢へまたふぅふぅ言いつつ粘土をつめてゆきます。冬の気が重くなる作業ではありますが、いつも初心にかえる事ができます。



T家の人々

まだ18〜20才の頃、田舎から松山にでてきて知り合った方でみんなからmamaとよばれ、慕われてる方がいました。ママはノイズアーティストで「ノイズには神がいるのよ」と当時いろいろ教えてもらいました。ギューとかジィィとかグワァングワァンとか鳴り響くとんがった音にママのスタジオで耳を傾けていました。やがて焼物を勉強しに瀬戸に行きますっと報告しにいくと「これからは宇宙との時代なのよ。やきものとかナニいってんのよ。ふーん。まぁがんばりなさいよ。」と送り出してくれました。 その約10年後、今の松山で窯を築きました。そしてママにはパートナーであるパパとよばれる人がいて、そのパパのお父さんがかつての民芸運動に関わって松山民芸店っとゆうお店をきりもりされていた事を知りました。ママは、「山の曲線とかみてたらおちつかないのよ」っと松山市内中心部で活動し、パパは実家の山裾で暮らしていました。この山裾が今のうちの工房から下っていったすぐ近所であり、パパのお父さんである早苗さんが住まれている所でもありました。見晴らしのいい里山にあります。「いちどたずねてみたら?なかなかキビシイ人よ」とママよりすすめられ早苗さんを尋ねてゆきました。最大限の緊張で戸をガラガラっと開けると早苗さんは着流しにマフラーとゆういでたちでこたつに座っていました。小さな声でで「まあどうぞ」と家の中へとススめられ、ゆっくりとお砂糖のたっぷりはいったコーヒーを入れてくれました。お店のような家のような母屋のハナレのようなガラス戸に面した不思議な空間の中心に居心地のいいこたつがありました。それからとゆうもの仕事に飽きると時折早苗さんをたずね静かな詩的な時間をそこで過ごしました。こんちわーっとその部屋の入り口の戸を開けると「アレ?留守かなぁ。早苗さんいないのかなぁ」と部屋をみわたすと部屋の中心で見事にモノに溶け込んでこたつに座ってる早苗さんに気づく事が多々ありました。琉球の知人がうちに逗留され一緒に早苗さんちにいくと遠い目をしながら当時の民芸運動の事をふりかえってて嬉しそうにお話しされてました。ある日の帰り際、「ちょっとまちなさい」と呼び止められ「これもっててゆきなさい。アノ世にまでは持ってゆけんから。」っと龍門寺の三彩の注器をわたされました。いままで畏れ多くてモノを欲したりしてはいけないと思ってた私はびっくりし「えっ?」っといいながらその注器を手に受け渡されました。そのしばらく後ママより早苗さんが他界されたことを知らされ、ちょうどうちに泊まっていた琉球の知人と共に御仏前に手をあわせることができました。今でもママは「山はきらいなのよー」っと松山市中心地で活動し、パパは早苗さんちである実家に住んでいます。時折野菜や山菜を「これもってけ」っと頂いてます。先日パパが「そういやぁオヤジがいつかコーヒーの苗木かってきてヨゥ。畑に植えてたけど枯れたなぁ」っと懐かしそうに言ってました。 なんでも実験する好奇心と探究心そして視野の広いグローバルな視点が彼の残した二冊の私書版の書物にも溢れております。

ママのお孫さんにあたる子が早苗さんの他界された後、スイスで生まれました。こうして時代や国籍を超えてナニかがどこかへナンとなく受けつがれてゆくのかなぁと時折、自分勝手に考えております。

今でもパパの家にいくと当時静かな声で「アンタは色の着いたモンもたまにはやいたらええ。」っと陽だまりでタバコを吸いつつ、着流しで首巻きの早苗さんの姿を思い出します。



荒神様

住居兼工房がある現在の場所へ移ってから時々軽トラの近所のおいちゃんおばちゃんが「こうじんさまもらうぜェ」っと車を止め、うちの庭の松の木に登り、ふぁさっと枝を切ってました。ある日「それ一体ナンに使うんですか?」っと尋ねたら「こりゃ荒神様じゃ。台所にこうやってまつっとったらお金に不自由せんのじゃ。」っと教えてくれました。っと聞くと実行しない手はありません。それからとゆうものずっと荒神様を台所に祭っています。そのご利益があるかどうかはわかりませんが台所東側に松の三本の枝が青々しく鎮座してるお姿は身がひきしまっていいものだなぁっといつも思っています。その庭の松の木もここ18年でグッと大きくなりました。クロマツ オンマツ とも呼ばれています。


冬の仕込みその二

磁器土は砥部陶磁器原料の佐川さんとゆう方より仕入れています。

南蛮ばかり茶色の焼物ばかり作っていた頃、先輩陶芸家より「つかってみるか」っと少し譲ってもらい、その後少しづつ使う量がふえて現在に至ります。

佐川さんは最初は随分おっかない人でした。言葉少なくガタンゴトンと歯車と木槌が水中で陶石を細かく粉砕する音が鳴り響く中、各部所の点検をし、一輪車で陶石の補充をし、ときにはショベルカーを動かし働いていました。最初に粘土を仕入れに行った時の緊張感は今でもよく思い出します。以前はケーキとよばれるフィルターで水分をしぼった正方形の板状の粘土で仕入れ、常圧ドレンキと呼ばれる機械で粘土を練り、その後手練りで練って(菊練り)そして水引き(ロクロ)に使ってました。佐川さんがある日真空土練機を現場に1台設置してくれました。磁器を使う作業には真空土練機はかかせないものです。各パーツがステンレス製のものになるとたいへん高額な機械となります。その土練機で現場でケーキを練って持って帰る事もできるとの事でした。それからとゆうもの随分そのドレンキを使わさせてもらいました。或る日、年の瀬でもう年末の仕事終わりだよって時に粘土を仕入れドレンキを貸してもらい粘土を練りました。「ドレンキ借ります」「おう」と一つ返事で気持ちよくお借りした時は嬉しかったです。製造業はいつも納期や時間に制約されます。陶磁器製造業の根幹となる原料製造もしかりです。今は知人よりドレンキを譲り受けケーキのまま持って帰る様になりましたが年末の土練りは忘れる事の出来無い想い出であります。


2014年4月吉日  いしだまこと   


注:石田誠氏特有の文法、慣用句、言い回しを生かすべく、玉稿を改変
    せず、100%オリジナルのママとしました。(担当:伊藤潔史拝)



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